頭の中は極彩色

消えていく前に文字として残すための備忘録とかそういうもの

鬱になるまでと鬱になってからと③

 

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 つづきです。

 

仕事を辞めました。なんだかすっきりしました。変な肩の荷も降りた気がしました。

 

実家に帰った後、すぐに学校への入学手続きをしました。お金は働いていた間にコツコツためていた貯金を全部ツッコミました。いっそ清々しかったです。半年でWebデザインに必要な基本的なスキルを身につけるコースでした。学校と言ってもそんなかしこまったことをするわけではなく、動画を見て本を見て自習しつつたまに先生に訊くという感じのところでした。公文式で育ったわたしにはすごく合いました。授業形式は正直眠くて頭になかなか入らないからです。

とりあえず全体をさーっと通ってわからないところを中心に復習していこうスタイルで勉強を進めました。が、このさーっとが意外と時間がかかりあっという間に半年立つことになるとはまだわたしは全然わかっていませんでした。

 

勉強を始めて1ヶ月が経つ頃、おじいちゃんが亡くなったとの一報を受けました。まだ鬱から完全に立ち直っていない私にとって、とてもショッキングな出来事でした。それからひと月はおばあちゃんの様子を見ながらおばあちゃん家と実家を行ったり来たりする日々でした。一旦勉強のことは忘れよう、と思っていました。ひと月経った頃、なんとなく落ちついてきたので勉強を再開しました。でもあんまり手につかなかったのを覚えています。

 

半年経ち、勉強が一通り終わったわたしはポートフォリオを作ってみようと思い立ちました。が、これがなかなか進みませんでした。とりあえず本に載ってる作品をちょっとパクったような作品を作ってみようとしました。趣味全開とまではいかないけどまぁこんなもんかなという作品ができあがりました。でもポートフォリオを呼ぶには程遠い仕上がりだったと思います。

この頃、家に篭ってずっと作業をすることが多くなりました。父も母も働いていたので朝早く出勤するのをベッドの中から見送りました。午前中は寝て、午後に起きて作業をする。それがわたしの生活リズムになってしまいました。

見かねた母が、とりあえず働いたらどう?と言ってきました。働くための作業をしているのに働けとはこれいかに、とも思いましたが、まぁ一日中パソコンにかじりついてる子供を見れば心配にはなるわなと思いました。でもどっちかというと家に篭っていることの方が母は気に入らなかったそうです。あと朝ごはん食べないこととか。一回だけ強烈に怒られたことがあります。そんなんじゃ社会復帰なんかできっこないとまで言われました。久しぶりに大泣きしました。それからちゃんとしようと思うようになりました。

 

バイトを立て続けに2社ほど落ちたあと、ハローワークに行ってみました。ここならバイトだけじゃなくて正社員の募集もあるなぁとぼんやり考えついたからです。転職サイトはなんとなく登録がめんどくさくてあんまり使いませんでした。転職サイトの方がいい求人見つかると聞きましたがなんとなくガツガツした会社が多そうで怖くて使いませんでした。意気地がないですね。

ハローワークでは今までの経歴を書くことになりました。学歴欄に高専の2文字があってテンションが上がったのを覚えています。わたしは高専生でした。いつも大学か短大の欄のどっちに丸つけようか悩むところを迷わず高専に丸つけてさすがハローワークだと思いました。もっと一般化してくれ。

経歴を書いた後、確認の面談を行いました。人当たりのいい、優しそうな方でした。もう働いて大丈夫なんですか?と気を遣っていただいたり、こういう職種はあんまり扱ったことはないけど面白そうですねと言っていただいたりと、とても細やかなところに手がとどく人だなと思いました。ほどなくしてハローワークカードなるものを作成してその日は帰りました。

 

バイトをいろいろ探すうちにわたしってばちゃんと働けるんだろうかと不安になってきました。休職期間を含めればもう1年半も働いていないのです。いきなりフルタイムは無理だろうと思ってバイトを探していましたが、この業界、なかなかバイトに求めるスキルが高くて応募する前から諦めることが多かったです。フルタイム正社員の方が育成する気がある会社があった気がします。そういうことも手伝って不安は大きくなるばかり。

そんな中、未経験でもフォトショ、イラレが使えれば可みたいな求人を発見しました。これだ!と思ってすぐハローワークへ飛んで行きました。ここ受けたいですと求人票を持って相談窓口にいきました。それからすぐに窓口の人が会社の方にアポをとってくださいました。この辺の早さにはちょっとびっくりしました。アポととったりする作業はとても苦手なのですごく助かりました。最初からハローワークにしときゃよかったと思いました。南無三。

 

いざ面接の日。面接していただいのは会社の代表の方でした。明朗な方で今までの面接で一番楽しかったのを覚えています。面接に楽しかったとかどうなのって感じですが。いろんな話をすること1時間。2、3日後に連絡しますねということで会社をでました。

 

面接の後だというのになんだか明るい気持ちになったのでその足でそのままカラオケに行きました。カラオケなんて超久しぶりでした。歌いまくりました。学生時代は軽音部でボーカルをやってたこともあり歌うの超好きでした。でもなんとなく今は真面目にしなきゃなと思ってカラオケは控えていました。なのでとてもストレス発散になりました。大きな声を出すのは大事だったなと思い出しました。

と、意気揚々に歌い上げているところに一通の電話がかかってきていました。全然気づかず歌いまくっていたわたしはそろそろ休憩するかという時になってやっと気づきました。あれ?今日面接したところじゃね?と電話番号を見て気づき、慌ててカラオケ機器のボリュームを全下げして電話をかけ直しました。2、3日後に連絡するって言ったじゃんと思いつつ。カラオケボックスから電話がかかってくるなんて向こうは思ってもみなかったでしょう。知らんけど。

 

お昼休みにメンバーと話して、採用ってことになりました!

 

とのお電話をいただき、心が狂喜乱舞しました。あれこれ必要な手続きがどうのこうの打ち合わせがどうのこうのと話をして電話を切りました。カラオケボックスでよかったー!とばかりにマイクを持っていっよしゃああああと叫びました。こんなに気持ちのいいシャウトは軽音部時代に1回だけやったBlackMarcketBlues並でした。久しぶりに心から喜ばしい出来事だったのでテンションが上がりすぎてモー娘。歌いました。家に帰って両親に報告したらお祝いだ!と焼肉に連れて行ってもらいました。手ぶらでいく焼肉はすこぶる美味しかったです。

後日、打ち合わせを行い、正式に雇用契約を交わしました。帰りにJR定期券を買いました。

 

 

というわけで明日から働くことになりました。

いろいろあったけどどうにかこうにか漕ぎ着けたので無理のない程度にまた頑張っていこうと思います。

 

ここまで読んでいただいてありがとうございました!

気が向いたらまたなにか書こうと思います。

 

 

鬱になるまでと鬱になってからと②

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つづきです。

鬱になってからはひたすら休養です。

 

病院で診断をもらった時に実家に帰った方がいいよと言われました。その方がリラックスできるでしょう?という感じで。

リラックスできるかどうかは別として実家に帰ってダラダラするのもいいのかなと思い、親に連絡。病状を説明するのは躊躇いましたが理由なしで長期休みの帰省の方が変な心配するかなと思って正直に白状しました。即帰省OKの許可をいただき3ヶ月実家に帰省することになりました。

 

実家に帰省し、ダラダラと過ごす毎日はとっても開放的でした。仕事のことも論文のことも考えなくていいなんてなんて幸せなんだろうと思いました。正直、何をしていたか思い出せないほど何もしませんでした。地元の友達と飲みに行ったり好きなライブに行ったりしたような気もします。あんなに嫌だったパソコンを使ってニコニコ動画のゲーム実況動画をひたすら一気見し続けることもしました。そんなことしてたら3ヶ月なんてあっという間でした。

3ヶ月経ちもとの一人暮らしのアパートに帰ってまた病院に行きました。休み足りた?復帰できそう?と訊かれまだ不安ですと答えました。休み足りない!ということではなく、どうしてかまだあの職場に帰るのは怖いという気持ちからでした。また一人暮らしが久しぶりでどうにも不安がまた舞い戻ってきたということもありました。ということでもう3ヶ月様子見るかと休養を延ばすことが決まりました。産業医の先生は休めるだけたくさん休むんだよと言ってくれました。

今度の3ヶ月は帰省せず病院のデイケアに通いながら様子を見ることになりました。デイケアではお昼ご飯が出で、のんびり本を読んだりお裁縫などをすることができました。でもジグソーパズルに一番ハマってたと思います。一週間かけて1000ピースのパズルを淡々と解いていくのは当時の自分に一番しっくりきました。何にも悪い思い出が蘇ってくる隙間もないくらい熱中できたからです。たまに施設の人とお散歩にも行きました。穏やかな時間という言葉が一番しっくりくる場所でした。

また3ヶ月が経とうとした頃、ちょっと頑張れるかもしれないとわたしの働きたい心が囁き始めます。まだ休みたいし職場はまだ怖いという心もいて、どうしようかなという感じでした。産業医さんと話して条件付きで復帰してみる?と訊かれたので頑張ってみたいと申し出ました。

すると話はトントン拍子に進み人事部の人も巻き込んで復帰面談というものが行われました。こういう条件でうんたらかんたらと話が進み、大丈夫そうですか?とわたしに話が振られ、だ、大丈夫です…となんとも自信なさげに答えてしまいました。ここで半分答えは出ていたと思います。

復帰日当日、出勤して一番にびっくりしたのはメールの数。そりゃ半年分だもの大量よね。ぼちぼち消化しているとOJTリーダーが出勤してきました。特に感動とかはないものの、まぁ無理のない程度に頑張ろうと言ってくださいました。

そしてミーティングが始まるわけですが、いきなり仕事をどさっと任せられました。いや復帰したばっかで多い少ないの加減がよくわからないのであれなんですが向こう1ヶ月のスケジュールは埋まりました。びっくりしました。ちょっと嫌になりました。

復帰3日目、朝からだが重くてしんどくて半年前も体験したあの悪い兆候がまた現れました。上司に連絡して休みにしてもらいました。また情けないという気持ちが湧いて出てきました。よくないなと思い始めました。

復帰7日目、休みが続いて産業医とまた面談をしました。無理してないかと訊かれ、ちょっと無理してますと答えました。復職に焦りは禁物だよと言われ、また診断書を書いてもらって休職する運びとなりました。あえなく失敗しました、復職。

 

それからまた3ヶ月実家に帰省しました。2回目の帰省だったので親はまたかぐらいの気持ちだったと思います。知らんけど。

ここでちょっとしたターニングポイントを迎えることになりました。一つはその会社じゃなきゃダメなのか?という問いとやりたいことがあればそっちやればいいんじゃないの?という問い。どっちも正直耳が痛かったです。今まで目を背けていたから。漠然と今の職場に復帰するものだと思っていましたが、到底今の状態では復帰できない。転職という手も考えましたがわたしみたいなスキルも微妙な奴を欲しがる奴がいるのだろうかと甚だ疑問でした。

母はそんなわたしをたまに叱責するようになりました。母なりの心配が積もり積もってしまったせいだとわたしは思っています。半年以上も宙ぶらりんのわたしが気になって仕方なかったのでしょう。変な気をたくさん使わせたと思います。ごめんなさい。母の言うことはど正論でした。わたしが会社の人と距離を変にとるから向こうも変に距離をとるしかなくてそれを勝手にわたしが嫌に思っているだけじゃないのかと言われました。わかってました。その通りだと、言われるたびに思い、泣きました。正直、そう言われるのは嫌で嫌で仕方なかったです。全自分を否定されたような気持ちになりました。でも会社の人もわたしのこともうよくわからないんじゃないかと思いました。

この辺の気持ちの整理は今でもあまりついていません。思い出すと辛い気持ちになるので思い出さないようにしています。

 

周りの人が嫌なら自分が変わるか、周りの人を変えるかの二択だと思いました。でも自分は変われそうに思えませんでした。今までの社会人生活を全否定するような気がしたからです。だったら周りの人を変えるしかないかなと思いました。転職です。

でも転職にも不安はたくさんありました。新しい職場になってもわたしの性格は変わっていないから前と同じようになってしまうのではないかと思いました。どこ行っても一緒なんじゃないかって。それにスキルも全然身についていない気もしました。今の職場でしか通用しないんじゃないかって思いました。それくらいあそこはちょっと閉鎖的なところだったようにわたしは感じました。だからってあの職場の人たちがスキルがないってわけではないです。単純に経験の差だと思います。

スキルに不安があるなら勉強すればいいのでは?と思い始めた時期があります。母が職業訓練校でエクセルの勉強をしてきたことがきっかけでした。母はいろんなパートをするためにたまにこういうところに行くんだと言っていました。ここでそうか、わからないのなら学べばいいのかと小学生でも当たり前の事実に気がつきました。それくらいわたしがおかしかったわけですが。

そんなわけで昔から興味のあったWebデザインの勉強ができるところを探し始めました。都会みたいに数がたくさんあるわけではなかったので片っ端から電話して担当の方とお話をしました。久しぶりに友人以外の人と話すことになりましたが、不思議とスムーズにお話ができました。担当の方に鬱になって今休職しているところなんですと告げると、大変でしたねと言われたのがとても心に残っています。さくっと辞めてお勉強して新しいお仕事始めましょう!ときっといろんな人にも言っているであろう謳い文句も当時のわたしには響きました。あ、仕事って辞めていいんだって思ったからです。

 

延長した療養期間が終わる頃、わたしは産業医の先生に電話しました。

 

それからは流れるように時間が過ぎました。そこそこ大きい会社に勤めていたので退職に関する書類がたくさんあってそれを書くのが一番疲れました。友達にこれくらい書類があったよと言ったら、わたしは紙1枚で終わったよと言われ、愕然としたのを覚えています。引越しの日取りも決めなくちゃいけなかったし、実家はマンションだったのでわたしの一人暮らしの仲間たちは中古買取業者に片っ端から買い取ってもらったりしました。でもライブグッズや趣味の道具は全部持って帰りました。引越し用ダンボールにして5箱分はあったと思います。どんだけ集めとんねん、あほか。

病院の先生もやめた方がいいかもってずっと思ってたって言ってました。わたしの決断をずっと待っててくれていたみたいでした。転院の紹介状も快く書いてくださいました。

 

こうしてわたしは勤めていた会社を辞めました。

 

 

 

つづく

 

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鬱になるまでと鬱になってからと①

鬱で約1年を無為に過ごしました。一昨年のアドベントカレンダーが挫折したのも気持ちがとてもじゃ無いけど続かなかったからでしょう。朝起きれず昼をぼーっと過ごして夜は明け方まで眠れない。そんな生活が3週間くらい続いたところで当時の彼氏や友人に手助けしてもらって会社の産業医さんと面談して初めて鬱だと自覚しました。いやその時はまだ自覚してなかったかもしれない。

鬱になってからやっと転職することができたので、鬱になるまでと鬱になった後のことを振り返ってみようかと思い、エントリを書いていきます。

 

そんな風に自分が鬱になったのは何も急に症状が出てきたせいではなかったななんて最近は思うようになりました。

当時のOJTリーダーを含め部内とのメンバーとはあんまりコミュニケーションを取ることが少なかったです。年上に対して口下手なのも手伝って世間話も全然しませんでした。まぁ当たり前なんですけど周りを見れば他の人は少しラフに構えていたようにわたしには思えました。長年仕事してきた仲というものでしょうか。そしてわたしにはそれが難しく思えました。それに仕事が出来てお金がもらえればいいかなと当時のわたしは考えていて、多分纏ってるオーラにもそんなものが含まれちゃってたんだろうなって今になって思います。今でもオープンにコミュニケーションを取るのは苦手です。オープンにというより積極的に自分からコミュニケーションしていくのがってことです。正直な話、仕事の質問をするにもいちいち深呼吸してメモを何回も見直して先輩の顔色とタイミングを見計らってやっていたのでだいぶコスパが悪かったように思います。

OJTリーダーはいつも忙しくて他の人のフォローで自分の仕事が回っていないような人でした。それに優しくて怒鳴るようなことをする人ではありませんでした。いろんな人の相談事をするすると解決していって内心すごい人の下についちゃったなぁなんて思いました。実際すごい人だったと思います。そんな人に対してもわたしの難解な気遣いは発揮されてしまいました。

 

そんな微妙な距離感の2人と時々あと何人かで自分たち分の業務をこなしていたのですが、ある時期途方にもなく忙しい時期がやってくることが分かりました。設計、設計、コーディング、コーディング、テスト、テストの嵐。予定表を組んだらどう見ても間に合わない納品日。頭を抱えるOJTリーダーを横目にわたしはこの月を生きて乗り越えられるんだろうかとぼんやり考えていました。そしてこの無茶なスケジューリングが後にわたしの体調を壊すきっかけになることとは夢にも思っていませんでした。

 

とりあえず手を動かなきゃ話にならんということでかつかつのスケジュールとにらめっこしつつ設計作業を開始しました。今回は君主導でやってみて!と言われましたがとりあえずさっぱり分からないところを訊いたりこのやり方で大丈夫そうか確認を取ったりしながら設計作業を進めていきました。正直、ほとんどOJTリーダーが考えたようなものだと思っています。毎回手直しされてたし。あんまり自分で作りましたという実感はなかったです。

そんな中、OJTリーダーに大量の仕事が舞い込んできます。わたしの業務に構ってる暇なんて正直なさそうでした。メールの消化中かな?的なタイミングを見計らって細かい設計ポイントやコーディングのポイント等を教えてもらいました。目に見えて疲弊してました。あの人。みかねた上司が他の人でフォローできそうな人探そうか?とフォローに入ります。この辺からやっと現実感が出てきましたわたしに。今更ですけど。あ、今やばいだって。でもいつも周りのみんなはやばそうな顔してたのでそれが普通だったと思い込んでたのもあります。今思えばあんなのを普通だと思ってはいけないって分かりますけど。

お分かりの通り、この時期くらいからわたしの心はちょっとずつ壊れ始めてたんじゃないかなと思います。平和だった時でさえちょっと窮屈に感じてたものが忙しくなってきて解放されるわけないですから。

 

そして上司のありがたいフォローの甲斐もあっていろんな人と打ち合わせをすることになりました。いろんな人にお世話になりました。不束者のわたしにいろんなことを教えてくれました。みんないい人でした。でもみんな余裕がなかったんだと思います。みんなそうです。だって忙しかったもの。

ところがテストの時期に差し掛かると、同時期に並行してやっていた通常業務でとあるミスをやらかしてしまいます。OJTリーダーが不在の時に限って。怒られました。ちょっとキツめに、外部の人に。堪えました。トイレで泣きました。でも周りには言いませんでした。だってわたしが一人で勝手にやらかしたし、その後の持ち直しも自分で出来たからです。社会人として当たり前だからです。自分の持ち場に責任を持つのは当たり前だと当時も思っていました。

でも後日また同じような失敗をしました。最低です。その頃わたしがやったようなタイプのミスはみんなに共有されるようにルールが新しく追加されたばかりでした。みんなにわたしのミスがメールで共有されました。ミスをした人は反省点と改善点を明記して担当にメールすることになっていました。担当にメールしたところ、こんなの改善にならないとまた怒られました。書き直してメールした後またトイレで泣きました。

たぶんこの時期からご飯がなぁなぁになっていました。社食があったので昼食はまともなものを食べてたと思います。他はカロリーメイトとかその類似商品を食べてました。

ミスが続いていたので気が緩んでるのかなと思いもっとちゃんとやろう!と気持ちだけ鼓舞しました。正直鼓舞になってなかったと思う。

 

テストも終わりを迎える頃、体制の変更がお達しされました。もともとちょっと微妙な立ち位置にいた2人だったので人事異動の時期についでにちゃんとしたところに入ろうということで所属が変更になり上司も変わりました。前の上司も後の上司もいい人でした。わたしの周りはいい人だらけだったなぁ。でもこの所属移動はわたしには何にも話は降りて来ませんでした。わたしから見れば急に降って湧いた話でした。まぁ仕事が変わるわけでないからいっかと思うことにしました。

 

とりあえず納品!完了…とまではいかないけど完了ってことで!という区切りを迎えた頃、論文の話が舞い込んできます。今回この作ったものをそのまま論文にしちゃおうという魂胆です。正直気は進みませんでしたが、何故かOJTリーダーは書こう!と言うのでとりあえず取り掛かりました。締め切りは2ヶ月先。余裕がそんなにないなぁと思いながら筆をとりました。

 

が、全然書けない。全然。

 

とりあえず目次からということで目次を完成させるのに結構食ってしまって肝心の内容に全然着手できませんでした。オマケに思い出すのは作業中の嫌な思い出ばかり。わたしが全部作ったわけじゃないのに名前はわたしの名前が入るなんてとてもじゃないけど耐えられませんでした。でも書かなきゃいけない。思い出したくない。この思い出したくないものには先も書いた2つの失敗も入っていて悪い思考で頭はぐるぐる。最悪の状態でした。

論文は時間外作業なので家にも持ち帰ってやってました。カロリーメイトを咀嚼しながらぼろぼろこぼしながらパソコンとにらめっこの夜。いつのまにか眠れなくなりました。

軽度の不眠症の症状が出始めたくらいでしょうか。最初はパソコンギリギリまで弄ってるせいかなと思いましたが、それはずっと昔からの習慣なので関係ないと思いました。いや、よくはないですよ。

 

仕事は正直暇なくらい平和になりました。いわゆる通常業務を平和にこなせる程度に。でも論文はその勘定に入っていません。このことがどんどん自分の中で勝手にプレッシャーになりました。

そのうち会社に行きたくなくなってきました。論文が全然進まないからです。こんなのも書けないのかと怒られる気がしたからです。そんなことないのに。

たぶんもう限界の淵にいました。変なプレッシャーを感じたり先輩がわたしのこと気に入らないんじゃないかとか思ったりしてました。家ではずっと泣いていました。今でも思い出すと普通に涙が出ます。

朝休む旨の電話を毎日するようになりました。でも上司はそうかそうかと何も言わずにお休みにしてくれました。情けなくてしょうがなかったです。当時付き合っていた彼氏はなんでも話聞くよと言ってくれました。周りはこんなに気を遣ってくれてるのにわたしはなんでこんなダメなやつなんだって悲しくなりました。自宅のベランダから飛び降りてやろう、道路に急に飛び出してみようなんてなん回も考えました。でもこれは鬱なんかじゃない、ただの甘ったれだと思っていました。

そんな中、この会社には産業医がいるということを聞きました。上司に産業医さんと話ししてきますと電話をして出勤し産業医さんのところへ直行しました。

ここからは泣いてた以外の記憶がありません。産業医さんの顔を見た瞬間に泣き出してしまった記憶が最後です。何か困ったことがあった?とか嫌なことがあった?とか人間関係嫌になっちゃった?とか訊かれたような気がしますがあんまりよく覚えていません。ただ泣いていたことしか覚えていません。答えるのにすごく苦しかったことはかすかに覚えていますが逐一話題をコロコロ変えてくださったので冷静に答えられたこともあったかもしれません。

わたしのズル休みは2週間続いていたので診断書を提出しないといけない、という運びになり病院に行くことになりました。

病院では何故か冷静に受け答えができました。そこでやっと鬱と睡眠障害の診断をもらいました。診断書には3ヶ月お休みが必要と書いてありました。

 

疲れたのでここまで。つづく。

 

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