頭の中は極彩色

消えていく前に文字として残すための備忘録とかそういうもの

鬱になるまでと鬱になってからと②

omitsutofu.hatenablog.com

 

つづきです。

鬱になってからはひたすら休養です。

 

病院で診断をもらった時に実家に帰った方がいいよと言われました。その方がリラックスできるでしょう?という感じで。

リラックスできるかどうかは別として実家に帰ってダラダラするのもいいのかなと思い、親に連絡。病状を説明するのは躊躇いましたが理由なしで長期休みの帰省の方が変な心配するかなと思って正直に白状しました。即帰省OKの許可をいただき3ヶ月実家に帰省することになりました。

 

実家に帰省し、ダラダラと過ごす毎日はとっても開放的でした。仕事のことも論文のことも考えなくていいなんてなんて幸せなんだろうと思いました。正直、何をしていたか思い出せないほど何もしませんでした。地元の友達と飲みに行ったり好きなライブに行ったりしたような気もします。あんなに嫌だったパソコンを使ってニコニコ動画のゲーム実況動画をひたすら一気見し続けることもしました。そんなことしてたら3ヶ月なんてあっという間でした。

3ヶ月経ちもとの一人暮らしのアパートに帰ってまた病院に行きました。休み足りた?復帰できそう?と訊かれまだ不安ですと答えました。休み足りない!ということではなく、どうしてかまだあの職場に帰るのは怖いという気持ちからでした。また一人暮らしが久しぶりでどうにも不安がまた舞い戻ってきたということもありました。ということでもう3ヶ月様子見るかと休養を延ばすことが決まりました。産業医の先生は休めるだけたくさん休むんだよと言ってくれました。

今度の3ヶ月は帰省せず病院のデイケアに通いながら様子を見ることになりました。デイケアではお昼ご飯が出で、のんびり本を読んだりお裁縫などをすることができました。でもジグソーパズルに一番ハマってたと思います。一週間かけて1000ピースのパズルを淡々と解いていくのは当時の自分に一番しっくりきました。何にも悪い思い出が蘇ってくる隙間もないくらい熱中できたからです。たまに施設の人とお散歩にも行きました。穏やかな時間という言葉が一番しっくりくる場所でした。

また3ヶ月が経とうとした頃、ちょっと頑張れるかもしれないとわたしの働きたい心が囁き始めます。まだ休みたいし職場はまだ怖いという心もいて、どうしようかなという感じでした。産業医さんと話して条件付きで復帰してみる?と訊かれたので頑張ってみたいと申し出ました。

すると話はトントン拍子に進み人事部の人も巻き込んで復帰面談というものが行われました。こういう条件でうんたらかんたらと話が進み、大丈夫そうですか?とわたしに話が振られ、だ、大丈夫です…となんとも自信なさげに答えてしまいました。ここで半分答えは出ていたと思います。

復帰日当日、出勤して一番にびっくりしたのはメールの数。そりゃ半年分だもの大量よね。ぼちぼち消化しているとOJTリーダーが出勤してきました。特に感動とかはないものの、まぁ無理のない程度に頑張ろうと言ってくださいました。

そしてミーティングが始まるわけですが、いきなり仕事をどさっと任せられました。いや復帰したばっかで多い少ないの加減がよくわからないのであれなんですが向こう1ヶ月のスケジュールは埋まりました。びっくりしました。ちょっと嫌になりました。

復帰3日目、朝からだが重くてしんどくて半年前も体験したあの悪い兆候がまた現れました。上司に連絡して休みにしてもらいました。また情けないという気持ちが湧いて出てきました。よくないなと思い始めました。

復帰7日目、休みが続いて産業医とまた面談をしました。無理してないかと訊かれ、ちょっと無理してますと答えました。復職に焦りは禁物だよと言われ、また診断書を書いてもらって休職する運びとなりました。あえなく失敗しました、復職。

 

それからまた3ヶ月実家に帰省しました。2回目の帰省だったので親はまたかぐらいの気持ちだったと思います。知らんけど。

ここでちょっとしたターニングポイントを迎えることになりました。一つはその会社じゃなきゃダメなのか?という問いとやりたいことがあればそっちやればいいんじゃないの?という問い。どっちも正直耳が痛かったです。今まで目を背けていたから。漠然と今の職場に復帰するものだと思っていましたが、到底今の状態では復帰できない。転職という手も考えましたがわたしみたいなスキルも微妙な奴を欲しがる奴がいるのだろうかと甚だ疑問でした。

母はそんなわたしをたまに叱責するようになりました。母なりの心配が積もり積もってしまったせいだとわたしは思っています。半年以上も宙ぶらりんのわたしが気になって仕方なかったのでしょう。変な気をたくさん使わせたと思います。ごめんなさい。母の言うことはど正論でした。わたしが会社の人と距離を変にとるから向こうも変に距離をとるしかなくてそれを勝手にわたしが嫌に思っているだけじゃないのかと言われました。わかってました。その通りだと、言われるたびに思い、泣きました。正直、そう言われるのは嫌で嫌で仕方なかったです。全自分を否定されたような気持ちになりました。でも会社の人もわたしのこともうよくわからないんじゃないかと思いました。

この辺の気持ちの整理は今でもあまりついていません。思い出すと辛い気持ちになるので思い出さないようにしています。

 

周りの人が嫌なら自分が変わるか、周りの人を変えるかの二択だと思いました。でも自分は変われそうに思えませんでした。今までの社会人生活を全否定するような気がしたからです。だったら周りの人を変えるしかないかなと思いました。転職です。

でも転職にも不安はたくさんありました。新しい職場になってもわたしの性格は変わっていないから前と同じようになってしまうのではないかと思いました。どこ行っても一緒なんじゃないかって。それにスキルも全然身についていない気もしました。今の職場でしか通用しないんじゃないかって思いました。それくらいあそこはちょっと閉鎖的なところだったようにわたしは感じました。だからってあの職場の人たちがスキルがないってわけではないです。単純に経験の差だと思います。

スキルに不安があるなら勉強すればいいのでは?と思い始めた時期があります。母が職業訓練校でエクセルの勉強をしてきたことがきっかけでした。母はいろんなパートをするためにたまにこういうところに行くんだと言っていました。ここでそうか、わからないのなら学べばいいのかと小学生でも当たり前の事実に気がつきました。それくらいわたしがおかしかったわけですが。

そんなわけで昔から興味のあったWebデザインの勉強ができるところを探し始めました。都会みたいに数がたくさんあるわけではなかったので片っ端から電話して担当の方とお話をしました。久しぶりに友人以外の人と話すことになりましたが、不思議とスムーズにお話ができました。担当の方に鬱になって今休職しているところなんですと告げると、大変でしたねと言われたのがとても心に残っています。さくっと辞めてお勉強して新しいお仕事始めましょう!ときっといろんな人にも言っているであろう謳い文句も当時のわたしには響きました。あ、仕事って辞めていいんだって思ったからです。

 

延長した療養期間が終わる頃、わたしは産業医の先生に電話しました。

 

それからは流れるように時間が過ぎました。そこそこ大きい会社に勤めていたので退職に関する書類がたくさんあってそれを書くのが一番疲れました。友達にこれくらい書類があったよと言ったら、わたしは紙1枚で終わったよと言われ、愕然としたのを覚えています。引越しの日取りも決めなくちゃいけなかったし、実家はマンションだったのでわたしの一人暮らしの仲間たちは中古買取業者に片っ端から買い取ってもらったりしました。でもライブグッズや趣味の道具は全部持って帰りました。引越し用ダンボールにして5箱分はあったと思います。どんだけ集めとんねん、あほか。

病院の先生もやめた方がいいかもってずっと思ってたって言ってました。わたしの決断をずっと待っててくれていたみたいでした。転院の紹介状も快く書いてくださいました。

 

こうしてわたしは勤めていた会社を辞めました。

 

 

 

つづく

 

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